妻垣神社 由緒

妻垣神社の始まり

妻垣神社の始まり

今より2650年も遥か昔、日向を発し東国へ向かわれる神武天皇(神倭伊波礼毘古命)は、この宇佐の地「妻垣」に立ち寄られました。その際、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメは皇軍一行を快く迎え入れ、歓待申し上げたと記紀(「古事記」「日本書紀」)に記されています。

翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をいたくお気に召され、連なる山々よりひと際輝く共鑰山(別名-妻垣山)の大石に母后玉依姫命(比咩大神)の御霊をお祀りするため、自ら祭主となり、玉依姫命の御霊を共鑰山にお迎えしました。その大石は「足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)」と名付けられました。
このことより当社の歴史が始まりました。

妻垣神社 社殿の創建

妻垣神社 社殿の創建

天平神護元年(765)、宇佐宮の八幡大神(八幡大菩薩)、この地に神幸し比咩大神と利生を語り合われました。また同年閏10月8日、八幡神は勅使石川朝臣豊成に『我はすでに共鑰山に示現しているので社殿を設け祀るように』との御神託を下されました。
そこで豊成は当地に社殿を造り、共鑰山の比咩大神と八幡大神が併せて祀られました。天長年間(823~834)には宇佐宮より神功皇后が勧請し、お祀り申し上げました。

以後当社は比咩大神を主祭神として、八幡大神、神功皇后の三柱の神を祀って、八幡社と号し、宇佐宮八ケ社の一社に位置付けされたのです。

妻垣神社の始まり

崇敬を仰ぐ日々

当社は官民の崇敬厚く厳粛なる祭事がおこなわれ、また社殿等もその都度修営をおこなってきました。 なかでも嘉暦3年(1328)、新田義貞に敗れ九州に逃れた足利尊氏は、宇佐宮に参籠し武運の再興を祈願。 当社にて流鏑馬の神事をおこない、京へと登り、征夷大将軍となって室町幕府を開きました。
貞治5年(1366)には、九州探題今川貞世(了俊)が共鑰山を始め、当社周辺での墓の建立・乱暴狼藉などを禁じた禁制を発布し、現在も住民はこの禁制を大事に守り続けています。
また境内には神宮寺延命院、普賢寺以下、四坊の神宮寺を擁し、宇佐宮同様、神仏習合の境内配置となっており、毎朝、本殿にて僧による読経がおこなわれていました。
しかし天正9年(1581)、キリシタン大名大友氏の兵火によって社殿を始め、隣接する神宮寺等悉く焼失してしまいました。
その後社殿は黒田長政公によって見事再建され、続く細川・松平・奥平氏と歴代中津藩主の崇敬を戴き、多くの地田も寄進され、中津藩、島原領の百余村の領民が氏子となり、神社は栄えていきました。

妻垣神社 明治以降の神社

妻垣神社 明治以降の神社

明治時代に入ると、国の神仏分離政策により境内にあった神宮寺延命院以下全て廃寺となり、本尊の普賢延命菩薩は同村の曹洞宗八幡山神徳寺に移されました。
明治12年(1879)9月19日には、「縣社」に列格され、宇佐郷(宇佐両院)の宗社として、昭和20年(1945)まで地方長官が供進使として年数度の大祭に参向されました。
大正2年(1913)4月には、社司林正木によって神社境内に私立騰宮学館が創設され(終戦により廃校) 、その後、昭和38年(1963)まで続く騰宮女子専門学校と併せて多くの神職教員等を輩出してきました。また近年は、文豪松本清張氏の耶馬台国小説『陸行水行』(昭和38

年)の舞台となり、人々に慕われ、愛される神社として今日に至っています。

妻垣神社 明治以降の神社

妻垣神社 御祭神

妻垣神社 足一騰宮(上宮) 比咩大神 本殿(下宮) 比咩大神・八幡大神・神功皇后

当社の主祭神は、比咩大神(ひめおおかみ)という女神です。

承和11年(844)の「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起(承和縁起)」によると、比咩大神は、宇佐神宮第二殿の比売大神と同神であり、共鑰山を比売大神の元宮と称すと記されているように、天平5年(733)、比咩大神は『我、八幡大神に副い奉らん』との御神託を下され、宇佐宮第二御殿にて祀られます。

本殿(下宮)には主祭神比咩大神を一ノ殿にお祀りし、二ノ殿に八幡大神、三ノ殿に神功皇后をお祀りしています。

妻垣神社  比咩大神 ひめおおかみ

比咩大神こと玉依姫命は、海神豊玉彦命を父にもち、姉は豊玉姫命とされる。
豊玉姫命の子、鵜葺草葺不合命を育て、後に妻となり、初代天皇となる神武天皇を産み育てられた神である。

このことより子孫繁栄・縁結び・安産・子宝・子育ての神と崇められ、家庭円満、夫婦和合の象徴として崇敬される。豊玉彦・豊玉姫の二神は深見川を挟んだ龍王山の海神社に祀られている。

妻垣神社  八幡大神 はちまんおおかみ

八幡大神こと応神天皇は、第15代天皇であり、父に仲哀天皇、母に神功皇后の間に生まれた御子である。

御神徳は国家鎮護・家内安全・殖産興業・厄除開運とされ、特に古くより武士に厚く崇敬され、武将の神という面が強い。
また神仏習合の神としても知られている。

妻垣神社 神功皇后 じんぐうこうごう

神功皇后(息長帯姫命)は、第14代仲哀天皇の御后とされ、第15代応神天皇の御母となられた方である。

御神徳は神人交歓・勝運・開拓・安産・子宝・子育てとされ、応神天皇を胎中に宿して三韓(朝鮮)を征伐したことでも知られている。